武田信玄と歴史―人材の活かし方、内藤修理亮昌秀―
信玄公は家臣同士を組み合わせることで、双方の長短所を補いました。
馬場信春の長所は、冷静な状況判断です。その長所を活かして、内藤昌秀との組み合わせを実行しある指示を与えました。
では、内藤昌秀とはどの様な人物でしょうか。

内藤昌秀
?~天正三年(1575)五月二十一日
武田氏の重臣工藤氏の出身。工藤氏は平安末期に甲斐に入部した一族で、鎌倉時代の甲斐源氏に属した名族。工藤下総守の子といわれるが、父の事績は明確でない。永正五年(1508)武田信虎に反旗を翻して敗れ、小山田平三(境(さかい)小山田弾正か)とともに、伊豆国韮山の伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲)を頼った「工藤殿」が、父に相当するか。武田氏奉行工藤長門守は兄とされる。源左衛門尉・修理亮。諱(いみな)は昌豊とされてきたが、自署する文書から昌秀が正しい。譜代家老衆として二五〇騎を指揮していたと『甲陽軍鑑』にある。確実な史料には、永禄二年(1559)六月、工藤源左衛門尉として登場し、信玄の側近として活動していたことが判明する。同六年ごろ、信濃国深志城に入り、同十三年ごろまで深志城を守備していた。この間、川中島の戦いなど、信玄のほとんどの作戦に従軍している。すでに永禄九年から、西上野衆後閑(ごかん)氏の取次役を務めるなど、武田氏の新たな領国西上野との関わり合いが深く、元亀元年(1570)四月ごろまでに、浅利信種(永禄十二年〈1569〉三増(みませ)峠の合戦で戦死)の後任として、西上野の要衝箕輪(みのわ)城代となる。
工藤から内藤姓に代ったのもほぼ同じころで、箕輪城代就任が契機の可能性もある。その後は、箕輪領支配を担い、西上野国衆の指南をも務めた。実子がなく、信濃国衆保科正俊の子千次郎を養子とした。彼が昌秀戦死後、家督を継いだ内藤大和守昌月(まさあき)である。天正三年(1575)五月の長篠合戦で戦死した。
『新編 武田信玄のすべて』(新人物往来社刊) 「武田信玄家臣団辞典」より引用。
とあります。
ここでは内藤昌秀の短所を示します。内藤は猪突猛進でかっとなりやすく、軽率な行動をとる欠点がありました。
信玄公はこの内藤と冷静な判断ができる馬場とを組み合わせどの様な指示を与えたのでしょうか。
馬場信春の長所は、冷静な状況判断です。その長所を活かして、内藤昌秀との組み合わせを実行しある指示を与えました。
では、内藤昌秀とはどの様な人物でしょうか。

内藤昌秀
?~天正三年(1575)五月二十一日
武田氏の重臣工藤氏の出身。工藤氏は平安末期に甲斐に入部した一族で、鎌倉時代の甲斐源氏に属した名族。工藤下総守の子といわれるが、父の事績は明確でない。永正五年(1508)武田信虎に反旗を翻して敗れ、小山田平三(境(さかい)小山田弾正か)とともに、伊豆国韮山の伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲)を頼った「工藤殿」が、父に相当するか。武田氏奉行工藤長門守は兄とされる。源左衛門尉・修理亮。諱(いみな)は昌豊とされてきたが、自署する文書から昌秀が正しい。譜代家老衆として二五〇騎を指揮していたと『甲陽軍鑑』にある。確実な史料には、永禄二年(1559)六月、工藤源左衛門尉として登場し、信玄の側近として活動していたことが判明する。同六年ごろ、信濃国深志城に入り、同十三年ごろまで深志城を守備していた。この間、川中島の戦いなど、信玄のほとんどの作戦に従軍している。すでに永禄九年から、西上野衆後閑(ごかん)氏の取次役を務めるなど、武田氏の新たな領国西上野との関わり合いが深く、元亀元年(1570)四月ごろまでに、浅利信種(永禄十二年〈1569〉三増(みませ)峠の合戦で戦死)の後任として、西上野の要衝箕輪(みのわ)城代となる。
工藤から内藤姓に代ったのもほぼ同じころで、箕輪城代就任が契機の可能性もある。その後は、箕輪領支配を担い、西上野国衆の指南をも務めた。実子がなく、信濃国衆保科正俊の子千次郎を養子とした。彼が昌秀戦死後、家督を継いだ内藤大和守昌月(まさあき)である。天正三年(1575)五月の長篠合戦で戦死した。
『新編 武田信玄のすべて』(新人物往来社刊) 「武田信玄家臣団辞典」より引用。
とあります。
ここでは内藤昌秀の短所を示します。内藤は猪突猛進でかっとなりやすく、軽率な行動をとる欠点がありました。
信玄公はこの内藤と冷静な判断ができる馬場とを組み合わせどの様な指示を与えたのでしょうか。
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