長篠合戦―『信長公記』の記述から―
長篠合戦(設楽原の戦い)についての織田家側からの記述です。
出どころは、『信長公記』です。
記述によると、戦闘の開始は日の出からであったようです。
五月廿一日、日の出より刁卯の方に向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ
とあります。 長篠合戦は天正三年五月二十一日に行われました。 これを現代の暦(グレゴリオ暦)に変換すると七月九日となります。 ですから大体六時頃には確実に陽は登っていますね。 ですから六時から未の刻(十四時頃)まで長篠合戦は行われていた。 ですから現在の通説である戦闘時間八時間に及ぶ激戦であったと―、 だから一方的に武田軍は鉄砲によって撃滅されたというのは根拠のない愚論では?
それから長篠合戦は織田軍の別働隊が長篠城を包囲いている武田軍に対して奇襲攻撃をしかけています。この時刻が辰の刻(八時頃)と記されています。 ですから主戦場の武田軍は八時以降に大規模な戦闘に移ったことが考えられます。 つまりは挟み撃ちに合っているからです。
『信長公記』にはこの奇襲攻撃が何時頃終了したのかは記されていません。 ですが武田軍の長篠城包囲部隊が敗戦したことは事実であります。 それにより主戦場の武田軍本隊(勝頼本陣)は退路を断たれたことになります。 そのことで武田軍は前面の織田・徳川連合軍に総攻撃を仕掛けたのであります。
それから織田軍は刁卯の方に向け―、とあるように東北東を向いていたことが分かります。 よって武田軍はその反対方向西南西を向いていたことが分かります。
それから武田軍の戦死者について、記録では
山県三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、杉原日向、なわ無理介、仁科、高坂又八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
の名が挙げられています。
その中で、馬場美濃守については、 手前の働き、比類なし―、と称賛されています。
また武田勝頼の馬が織田方に捕らえられています。 小さい馬であったようですが、乗り心つ比類なき駿馬の由候― 、とあるように武田軍の馬はやはり他家の武将の目を引いたようです。
出どころは、『信長公記』です。
記述によると、戦闘の開始は日の出からであったようです。
五月廿一日、日の出より刁卯の方に向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ
とあります。 長篠合戦は天正三年五月二十一日に行われました。 これを現代の暦(グレゴリオ暦)に変換すると七月九日となります。 ですから大体六時頃には確実に陽は登っていますね。 ですから六時から未の刻(十四時頃)まで長篠合戦は行われていた。 ですから現在の通説である戦闘時間八時間に及ぶ激戦であったと―、 だから一方的に武田軍は鉄砲によって撃滅されたというのは根拠のない愚論では?
それから長篠合戦は織田軍の別働隊が長篠城を包囲いている武田軍に対して奇襲攻撃をしかけています。この時刻が辰の刻(八時頃)と記されています。 ですから主戦場の武田軍は八時以降に大規模な戦闘に移ったことが考えられます。 つまりは挟み撃ちに合っているからです。
『信長公記』にはこの奇襲攻撃が何時頃終了したのかは記されていません。 ですが武田軍の長篠城包囲部隊が敗戦したことは事実であります。 それにより主戦場の武田軍本隊(勝頼本陣)は退路を断たれたことになります。 そのことで武田軍は前面の織田・徳川連合軍に総攻撃を仕掛けたのであります。
それから織田軍は刁卯の方に向け―、とあるように東北東を向いていたことが分かります。 よって武田軍はその反対方向西南西を向いていたことが分かります。
それから武田軍の戦死者について、記録では
山県三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、杉原日向、なわ無理介、仁科、高坂又八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
の名が挙げられています。
その中で、馬場美濃守については、 手前の働き、比類なし―、と称賛されています。
また武田勝頼の馬が織田方に捕らえられています。 小さい馬であったようですが、乗り心つ比類なき駿馬の由候― 、とあるように武田軍の馬はやはり他家の武将の目を引いたようです。
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