信州上田原合戦之事―『甲陽軍鑑』より6―
上田原の戦いを『甲陽軍鑑』より見てきた。 古戦場に残る史跡・伝承、また他の史料を合わせて見てきたが、ここでは、『甲陽軍鑑』だけを用いて、戦いの細部を表してみる。
軍勢の数。
村上軍― 七千人
武田軍― 総兵力の記述無し。 (板垣組衆合わせて三千五百、 原加賀守三百計、が唯一の武田軍の兵数の記載)
参戦武将名
村上軍― 村上義清
武田軍― 武田晴信・板垣信形(組衆として栗原左衛門)・飯富兵部・小山田備中・石田の小山田(郡内の誤記か)・御舎弟典厩(武田信繁)・馬場民部・内藤修理・諸角・真田・浅利・原加賀守・山本勘助
戦死者名
村上軍― 記述無し
武田軍― 板垣信形
戦死者数
村上軍― 二千九百十九(板垣衆百五十討ち取る)
武田軍― 雑兵共に七百
戦況に関しての記述は以上となる。
時間の記述について
開始時間
辰の刻(午前八時頃)甲州方より合戦を始める。
終了時間
申の刻(午後四時頃)に頸帳つけ(中略)申の刻の末(午後六時頃)勝ち鬨を執り行った。
合戦時間は、午前八時から午後四時と見られる。 都合8時間の戦いとなる。
戦場に関する記述。
かや野へからまり、という記述。
また、別品 品四十三、 信玄公十六歳より五拾三迄の間に軍法工夫仕たる衆 には、足軽大将の配属先が記されている。 これは上田原合戦における参戦武将の参考に出来る。
横田備中守(騎馬三十騎、足軽百人)
「御陣の刻は大かた甘利備前に相添らるる」 とある。
*『甲陽軍鑑』の上田原合戦では何故か?甘利備前の名は一度も出てこない。
多田淡路守
「御働の刻は、大かた板垣信形に指添らるる」 とある。
原美濃守(馬乗三十五騎、足軽百人)
「御陣の刻は、飯富兵部、後は山県に指添らるる」 とある。
小幡山城守(馬乗十五騎、足軽七十五人)
「馬場美濃に指し添らえ、後は、高坂弾正に添えら、信州かい津二のくるわに置給ふ」 とある。
よって上田原合戦之事に記された、登場人物の他に以上の家臣が参戦していた可能性をうかがい知ることが出来る。
またこの品には、信玄公御旗 という項がある。
信玄公御旗

一、赤地に八幡大菩薩の籏二本
一、赤地に将(勝)軍地蔵大菩薩の籏二本
一、武田二拾七代迄之御籏一本
「一」 「其」疾如風 「一」 「其」静(徐)如林
「一」 侵掠如火 「一」 不動如山
是は黒地に金を以而此四ツの語を書給ふ。 籏は四方也。 此籏共に、以上六本なり。 川中嶋合戦から此籏をなさるる。 又味方が原にて、家康・信長に勝て、殊に信長と手ぎれありて、東美濃発向の時、此語を右の籏にいれ給ふ。
「一」天上天下 唯我独尊
此古事を入て、籏の仕様は、
一 其疾如風 「一」 其静(徐)如林
「一」 侵掠如火 「一」 不動如山
「一」 天上天下 「一」 唯我独尊
如此御籏は、天正元年酉の三月もたせ初られ、同四月十二日に御他界なり。
此六本の御籏奉行一人、惣籏奉行一人、それによりて、二人也。 右六本の内には、尊師(孫子)の籏を肝要なり。 口伝。
とあります。
信玄公の御旗は、上記の六本であり、その内一本、二十七代までの御旗(一説に日の丸)は家宝の旗であるので、信玄公独自の旗は五本になる。
その内の、所謂「孫子の旗」(風林火山)は、川中島合戦(天文二十四年から永禄四年までの間)から使用されたとある。
また東美濃発向とある、元亀四年(天正元年)にはこの孫子の旗に、二つの四字熟語を加えたとある。
この旗は 「四方也」 とあり、もしかすると四角形の形をしていた可能性もある。
現存(恵林寺・雲峰寺)する孫子の旗とは形状が異なる物であったかもしれない。
*「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん) とは、「この世に個として存在する「我」より尊い存在はないということ」。
これは、釈迦が誕生時に唱えたという伝承。 「我」は個々人であるとされ、それぞれの存在が尊い―、ということ。 一方で世の中で我のみが尊いという解釈もあるようである。
小生は、前者の 「個々人」それぞれが尊い、という意味を以って信玄公はこの言葉を入れたと考えたい。
『甲陽軍鑑』 品五十三 にもこの「孫子の旗」 に関する記述がある。
一、信玄公は軍にけがのなきように、敵を見て、退口の荒なきやうに、巻たる城を敵の後詰を見て巻ほぐし、のかぬように出陣前にならしをよくして出、惣じて我領分の小城を、一ツもとられざるように、あとの勝利を水にせぬやうにさへあれば、末代まで名は残ル者也。 扨又国を多治事は、其身の果報有て、少もけがなくして、名を取て、寿命長ければ、終に扶桑六十余州の主共成べきと仰らるる也。
信玄公の御作法は、御小旗の文字に書給ふ四ヶ条のごとく也。
其古語者 「一」其疾如風 「一」其静(徐)如林 「一」侵掠如火
「一」不動如山 「一」天上天下唯我独尊
とあります。
信玄公は、軍に失敗しないように敵を見て、荒い退却をしない、包囲した城に敵の後詰を見て包囲を解いて引かない様に、出陣の前によく訓練して出陣する。 全体として自領の小城一つも取られないように、後の勝利を水にしないようにさえすれば、末代まで名を残すことが出来る。さてまた国多く治める事は、その身運にも恵まれて、少しも失敗もなく、名を上げて、寿命が長ければ、最後には我が国六十余州の主にも成れるものだと仰せられた。 と記してあります。 その意をこの「孫子の旗」に記した文字に込めているのである。
この「孫子の旗」 の言葉は、孫子の書軍争篇という中に記されている。
兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。 故に其の疾きことは風の如く、其の徐なることは林の如く、侵掠することは火の如く、知り難きことは陰の如く、動かざることは山の如く、動くことは雷の振うが如くにして、郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。 迂直の計の先知する者は勝つ。 此れ軍争の法なり。
兵は詐りを以って立つ(相手の裏をかく)、利を以って動き(都合よく動く)、分合(分かれたり集まったり)を以って変(変化)をする者である。 それが以下の 風・林・火・陰・山・雷のような姿であると言っているのです。
そしてそれは「迂直の計」 を先に知る者が勝つと。 これが戦い方の原則であると言っているのです。
その原則を旗印に記したのが、「孫子の旗」であり、後年書き足した、「天上天下唯我独尊」 はこの原則を実行するには個々(皆)の存在が尊いー、ということなのであろうか? 小生はそう考えた。
『甲陽軍鑑』 品四十一に、
「夫軍法は兵法也。 (中略) よきさいはいの其元はよき法度なり。」 ここに武田家・軍の神髄がある。 強い軍隊を支えるのも強き国を支えるのもよき法度=決まりであり、決まりは守るものであるということ。 その教えを大陸から学び実行したということか。
上田原の戦いには、この孫子の旗は用いられていなかった。 その後、経験した戦場を糧に、学んだ知識を利用して戦場での行動指針を説いたのであろう。
軍勢の数。
村上軍― 七千人
武田軍― 総兵力の記述無し。 (板垣組衆合わせて三千五百、 原加賀守三百計、が唯一の武田軍の兵数の記載)
参戦武将名
村上軍― 村上義清
武田軍― 武田晴信・板垣信形(組衆として栗原左衛門)・飯富兵部・小山田備中・石田の小山田(郡内の誤記か)・御舎弟典厩(武田信繁)・馬場民部・内藤修理・諸角・真田・浅利・原加賀守・山本勘助
戦死者名
村上軍― 記述無し
武田軍― 板垣信形
戦死者数
村上軍― 二千九百十九(板垣衆百五十討ち取る)
武田軍― 雑兵共に七百
戦況に関しての記述は以上となる。
時間の記述について
開始時間
辰の刻(午前八時頃)甲州方より合戦を始める。
終了時間
申の刻(午後四時頃)に頸帳つけ(中略)申の刻の末(午後六時頃)勝ち鬨を執り行った。
合戦時間は、午前八時から午後四時と見られる。 都合8時間の戦いとなる。
戦場に関する記述。
かや野へからまり、という記述。
また、別品 品四十三、 信玄公十六歳より五拾三迄の間に軍法工夫仕たる衆 には、足軽大将の配属先が記されている。 これは上田原合戦における参戦武将の参考に出来る。
横田備中守(騎馬三十騎、足軽百人)
「御陣の刻は大かた甘利備前に相添らるる」 とある。
*『甲陽軍鑑』の上田原合戦では何故か?甘利備前の名は一度も出てこない。
多田淡路守
「御働の刻は、大かた板垣信形に指添らるる」 とある。
原美濃守(馬乗三十五騎、足軽百人)
「御陣の刻は、飯富兵部、後は山県に指添らるる」 とある。
小幡山城守(馬乗十五騎、足軽七十五人)
「馬場美濃に指し添らえ、後は、高坂弾正に添えら、信州かい津二のくるわに置給ふ」 とある。
よって上田原合戦之事に記された、登場人物の他に以上の家臣が参戦していた可能性をうかがい知ることが出来る。
またこの品には、信玄公御旗 という項がある。
信玄公御旗

一、赤地に八幡大菩薩の籏二本
一、赤地に将(勝)軍地蔵大菩薩の籏二本
一、武田二拾七代迄之御籏一本
「一」 「其」疾如風 「一」 「其」静(徐)如林
「一」 侵掠如火 「一」 不動如山
是は黒地に金を以而此四ツの語を書給ふ。 籏は四方也。 此籏共に、以上六本なり。 川中嶋合戦から此籏をなさるる。 又味方が原にて、家康・信長に勝て、殊に信長と手ぎれありて、東美濃発向の時、此語を右の籏にいれ給ふ。
「一」天上天下 唯我独尊
此古事を入て、籏の仕様は、
一 其疾如風 「一」 其静(徐)如林
「一」 侵掠如火 「一」 不動如山
「一」 天上天下 「一」 唯我独尊
如此御籏は、天正元年酉の三月もたせ初られ、同四月十二日に御他界なり。
此六本の御籏奉行一人、惣籏奉行一人、それによりて、二人也。 右六本の内には、尊師(孫子)の籏を肝要なり。 口伝。
とあります。
信玄公の御旗は、上記の六本であり、その内一本、二十七代までの御旗(一説に日の丸)は家宝の旗であるので、信玄公独自の旗は五本になる。
その内の、所謂「孫子の旗」(風林火山)は、川中島合戦(天文二十四年から永禄四年までの間)から使用されたとある。
また東美濃発向とある、元亀四年(天正元年)にはこの孫子の旗に、二つの四字熟語を加えたとある。
この旗は 「四方也」 とあり、もしかすると四角形の形をしていた可能性もある。
現存(恵林寺・雲峰寺)する孫子の旗とは形状が異なる物であったかもしれない。
*「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん) とは、「この世に個として存在する「我」より尊い存在はないということ」。
これは、釈迦が誕生時に唱えたという伝承。 「我」は個々人であるとされ、それぞれの存在が尊い―、ということ。 一方で世の中で我のみが尊いという解釈もあるようである。
小生は、前者の 「個々人」それぞれが尊い、という意味を以って信玄公はこの言葉を入れたと考えたい。
『甲陽軍鑑』 品五十三 にもこの「孫子の旗」 に関する記述がある。
一、信玄公は軍にけがのなきように、敵を見て、退口の荒なきやうに、巻たる城を敵の後詰を見て巻ほぐし、のかぬように出陣前にならしをよくして出、惣じて我領分の小城を、一ツもとられざるように、あとの勝利を水にせぬやうにさへあれば、末代まで名は残ル者也。 扨又国を多治事は、其身の果報有て、少もけがなくして、名を取て、寿命長ければ、終に扶桑六十余州の主共成べきと仰らるる也。
信玄公の御作法は、御小旗の文字に書給ふ四ヶ条のごとく也。
其古語者 「一」其疾如風 「一」其静(徐)如林 「一」侵掠如火
「一」不動如山 「一」天上天下唯我独尊
とあります。
信玄公は、軍に失敗しないように敵を見て、荒い退却をしない、包囲した城に敵の後詰を見て包囲を解いて引かない様に、出陣の前によく訓練して出陣する。 全体として自領の小城一つも取られないように、後の勝利を水にしないようにさえすれば、末代まで名を残すことが出来る。さてまた国多く治める事は、その身運にも恵まれて、少しも失敗もなく、名を上げて、寿命が長ければ、最後には我が国六十余州の主にも成れるものだと仰せられた。 と記してあります。 その意をこの「孫子の旗」に記した文字に込めているのである。
この「孫子の旗」 の言葉は、孫子の書軍争篇という中に記されている。
兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。 故に其の疾きことは風の如く、其の徐なることは林の如く、侵掠することは火の如く、知り難きことは陰の如く、動かざることは山の如く、動くことは雷の振うが如くにして、郷を掠むるには衆を分かち、地を廓むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。 迂直の計の先知する者は勝つ。 此れ軍争の法なり。
兵は詐りを以って立つ(相手の裏をかく)、利を以って動き(都合よく動く)、分合(分かれたり集まったり)を以って変(変化)をする者である。 それが以下の 風・林・火・陰・山・雷のような姿であると言っているのです。
そしてそれは「迂直の計」 を先に知る者が勝つと。 これが戦い方の原則であると言っているのです。
その原則を旗印に記したのが、「孫子の旗」であり、後年書き足した、「天上天下唯我独尊」 はこの原則を実行するには個々(皆)の存在が尊いー、ということなのであろうか? 小生はそう考えた。
『甲陽軍鑑』 品四十一に、
「夫軍法は兵法也。 (中略) よきさいはいの其元はよき法度なり。」 ここに武田家・軍の神髄がある。 強い軍隊を支えるのも強き国を支えるのもよき法度=決まりであり、決まりは守るものであるということ。 その教えを大陸から学び実行したということか。
上田原の戦いには、この孫子の旗は用いられていなかった。 その後、経験した戦場を糧に、学んだ知識を利用して戦場での行動指針を説いたのであろう。
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