長篠の戦い ー諸説・論を思考するー
長篠の戦い。 通説・定説・新説・異論、挙げればきりがないが、戦いそのものの実態すら判然としない。
その理由はなにか? を思考している。
理由の一つは、用いる史料の解釈の違い。 これは言うまでもなく、論者により、文章・記述の解釈に相違が発生していること。 今一つ、用いる史料・資料の相違・混合。 長篠の戦いを論ずるに、論者がそれぞれに根拠とする史料・資料を持ちだすこと。
今一つは、昨今気が付いたが、書籍・論文に利用された参考文献の著者を見ること。 また引用された参考文献の該当する箇所を全文通して読むこと。
何が言いたいか!、著者により、参考文献の書に偏りが見られるからである。 個別の事例は差別・誹謗中傷になりかねない為に、あえて記さないが、以後、参考文献に登場する著者名も併せて見ると、一定の傾向が見られるはずである。 いわゆる派閥・対立の構図が読みとれるという、珍事である。 何故なら歴史学、或いは謎の解明を突き詰めるのに、人間関係(或いは組織)が立ちはだかっているという面白さで、これが各論説の進展の妨げになっていることである。
もう一点、参考文献の該当箇所を、「切り抜き」ではなく、時間を懸けて、全文を読むことである。 「切り抜き」と全文では、記述の内容に相違が発生する。 「切り抜き」は、引用した著者の意図が介入するため、文意が改竄されることがある。
一方で、長篠の戦いを思考する上で、用いる基本史料(資料)においても、それぞれの立場的見解の相違がある。
長篠の戦いを記した、双方の記録、『信長公記』・『甲陽軍鑑』も戦いの見方に相違がある。 これは当然なことである。
*ここにも問題点があるが、そもそも長篠の戦いは、武田家対徳川家が主体であり、織田家はあくまで援軍であった。 しかし、徳川家康の立場、織田信長との関係上、同盟者というより家臣に近い存在であった。 よって徳川方の著名な記録が存在しない理由はそこにあるように思われる。 長篠の戦いを論考する際、徳川方史料は二次的史料あるいは補足となる場合が多いのも、上記の背景があると考える。
小生の疑問(思考の主体)は、記述の解釈の相違による歴史事象の並立にある。
次の記述が、疑問の一例である。
(『長篠合戦と武田勝頼』平山優 吉川弘文館 2014年 152頁)
(上記同書 291-292頁)
上記の記述についての疑問の中心は、武田軍一番隊から三番隊までが、全て馬上武者を戦場に投入したか否かによる。 さらに論点を絞れば、馬上武者集団が連合軍陣地に向けて突入したか否かの記述の解釈になる。
参考文献に挙げられた、桐野作人氏の2010年の著書を手に取り読んでみた。
残念ながら、確かに、三番隊小幡一党の記述、「是れ又、馬入るべき行にて」(『新訂 信長公記』)を、一番隊から三番隊迄と解釈していることは、同氏の著書でもはっきりと記されていた。
しかし、問題は、その前後或いはその章全ての記述を読むのと、「切り抜き」の感想は全く違った。
それは、長篠の戦いの野戦に際して、武田軍がどの様な立場(状況の急変)にあったか? ここは結果を知ったうえで、「追い込まれたか」という状況も含めて、この一文を読まないと、本来の姿が変わってしまうように思えた。
兎角昨今は、時間を売り物にする世になった。 じっくりと記述を読まないという、欠点がここでも露になる。
また古語辞典で「是」という言葉を調べると、意味の一つに、「すぐ前に話題となったものをさす」があった。 すると、一番隊から三番隊迄が、馬上武者を戦闘に投入したと読めないことは否定された。 そして、その前の文章「関東衆馬上の巧者」を含めて考えるなら、馬上武者が戦闘に投入されたことは否定できない。 ただし、「是」の意味を考慮して、素直に記述を読むならば、「是」は「関東衆馬上の巧者」のことを指しており、「又」は、その技術をよって馬上武者を戦闘に投入したと読むことになる。 つまりこれは歴史学を超え、国語学に頼るべき問題点になるともいえる。
また、「馬」という言葉にも単語・組み合わせによって複数の意味が存在する。
一例として、次の記述がある。
(『長篠の戦い』 藤本正行 洋泉社 2010年)
一方で、「馬」には「出馬」・「馬納る」というように、馬上武者の意味の他に、大名の行動を表す意味もある。
問題点の主体は、馬上武者の存在(一番・二番隊も同様に)とそれが通説の集団(隊や軍団)であったかに定まる。
桐野氏の論考は、『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』第二章 馬 「検証・武田騎馬軍団」 141-166頁に詳しい。
*併せて第一章 火 戦国軍団の火器・戦術の実態 「織田信長の火器戦略」 77ー101頁 を全文読むと、よりいっそう長篠の戦いの世界を楽しめる。
桐野氏の論考は、前後を挟まれた武田軍の状況を考慮したうえで、先の『信長公記』の一文を解釈していると小生は読んだ。
武田軍は、当初の目的(連合軍とじっくり腰を据えた対峙)から、背後を取られる非常事態に状況が変化した。 つまり、正面の連合軍を短時間にて撃破・突破するか、退却かの二択を迫られ、戦前の敵情判断から、武田軍は、決戦を選択した(家中の意見は対立)。 こうした前後の状況を踏まえた上の馬上武者戦闘投入であるなら、その様な解釈の仕方も納得できる。
つまり、問題は、是が武田軍全体の作戦、または実態(あいまいな「騎馬隊」・「騎馬軍団」等の解釈)であるかという思考とは全く別問題であるという結論に達した。 つまり、通常の野戦・攻城戦ではない、背後を取られた、非常事態下の戦いであったという解釈が必要で、それは、武田方の長篠城包囲部隊が、連合軍別動隊の奇襲により、壊滅した報告を受ける(一報を勝頼は何時受けたか?)までとの作戦と陣構えとは状況が大きく変わったことを考慮する必要がある。
この思考を踏まえて、『信長公記』巻八 「三州長篠御合戦の事」を再読するなら、また違った感想を得ることが出来るだろう。
そして、それを踏まえた上で、『甲陽軍鑑』の長篠の戦いの記述、品第十四と品第五十二を読むと、双方の見解の違いがより明確になる。 それは、戦前戦後の武田勝頼の書状からも読みとる事が出来る。
と、桐野氏の論考に洗脳されたように見えるがそうでもない。
桐野氏は、徳川方の史料によって、武田軍の馬上武者が集団で連合軍陣地に突入してきたことを論じている。
(『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』 154頁)
とある。
確かに、武田の馬上武者が 「五十騎、三十騎づゝかけ来り」(同書 156頁) というように集団で攻めかかってきた記述は存在する。 その後、桐野氏は、武田方の 「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)を用いて、騎馬集団の存在の裏付けを行っている。 しかし、この陣立書は武田信玄の旗本衆であり、武田家臣の部隊編成とは異なる。 旗本衆は武田家に直接雇われた者、直臣や傭兵であって、武田家臣の家臣いわゆる陪臣とは違うのである。 その理由は、兵種別編成の有無にあるが、ここではその論考は控える。
一方、この「覚書 故水野左近物語」なる史料がどれほどの史料なのか? 小生にはよく分からない。 小生の見識の浅さかもしれないが、恐らく同書で初めて知った史料・記述であるように記憶する。 ただし、ネットで調べると、検索で関連記事が直ぐ見つかる事実は存在する。
ここで言いたいことは、確かに著書を読んでいると、「思い込み」や話術により、論考に引き込まれてしまう傾向があることは間違いない。 しかし、先に示したように、これは記述の解釈の相違と、用いる基本史料の相違という、評価のしづらい問題点が存在する。
一方で、小生は知人を介して、中学校国語教師の方に『信長公記』巻八の武田軍の戦闘場面をどう読むのか?を質問していた。
返ってきた解答。
とあり、国語の教師の方は、一例として上記のような解読している。 質問の仕方と相手の捉え方の問題も種々あるかもしれないが、やはり武田軍全体が馬上武者(集団)を戦闘に投入したとは読んでいない。
面白いのは、「よりにもよって馬で攻めてきた。」と読んでいるところで、解釈の仕方は色々あるということがよく分かった。
拡大解釈・先入観が作用していることかもしれないが、それは読者個人の見解の相違で、「世の中の人は色々あり」という武田信玄の名言の実態がここでも証明できた。
一方で、武田軍の馬上武者集団説に否定的な立場の鈴木氏の著書である。
『戦国「常識・非常識」大論争!』 鈴木眞哉 洋泉社 2011年 の第三章 「やはり「武田騎馬隊」はいませんよ!」89ー120頁に騎馬隊否定説の記述がある。 詳細は同書を読まれたい。
気になったのは、
(同書 111頁)
(同書 112ー113頁)
一点目は、先にも触れた、記述の読み方・用い方。 「切り抜きか」・全文を読んだかの違いで、文意の解釈が変化する。 「切り抜き」引用は、昨今はやりの報道やネット上の「切り抜き」同様、衝撃的な見出しに利用され、意図的に文意が改竄されることと、そもそも記述を読まないという失態である。
そして二点目は、馬上武者が後の「騎兵」と混同して語られることであって、そもそも戦国時代の馬上武者の戦い方や軍馬の利用方法の見解・解釈の相違や誤解があることが読めた。
ここに挙げた、引用文は、小生の意図による引用で、他者の感じる感想とは違う。 よって全文を読まれたい。 また同書は、編集上参考文献の一覧を掲載していないが、記述内に多数の参考文献が登場する。 鈴木氏以外の論考を挙げると、
太向義明 「武田 ”騎馬隊” 像の形成史を遡る」(『武田氏研究』 21号 1999年9月)
藤本正行 『戦国合戦本当はこうだった』(洋泉社 1997)
同 『長篠の戦い』(歴史新書y 2010)
小和田哲男 掲載論文 『設楽原歴史資料館研究紀要・第四号』(2000)
同 『歴史ドラマと時代考証』(中経出版 2010)
桐野作人 『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』
となる。
これは初めに述べた、記述の解釈の相違であることは間違いない。 そして国語教師の一例を挙げたように、歴史学者・専門家・研究者とは異なる解読をしていることも示すことが出来た。
最後に、鈴木氏は、同書 「はじめに」 の中で次のように述べている。
(『戦国「常識・非常識」大論争!』 3頁)
疑問の実態が明確化されたことにより、解釈の相違をどの様に修正していくのか? 歴史学だけの問題を超えた、共同研究や対面議論の必要性が見えてきた。
そこでこれらを踏まえて、個として出来うることは、『信長公記』の記述の深読みと、『甲陽軍鑑』の記述との比較と相違の検証であり、桐野氏の論考にあった、武田軍の置かれた状況変化をどう読むかに掛かっている。
武田軍が落城寸前の長篠城攻めを一時中断し、残留監視部隊を残して、何故陣を移したのか? この武田軍内の方針転換は? どういった理由・事情があったのだろうか? また連合軍の別動隊の動きも重要で、武田軍は別動隊の動向を全く察知できなかったのか? また武田軍本隊は、別動隊の奇襲攻撃の戦果をいつ知り得たのか? 長篠の戦いの謎はまだまだ沢山ある。
これらを『甲陽軍鑑』の記述から深読みすることは出来るのだろうか?
謎や思考の基は多数存在するが、これまでの定説の賛否の基、馬上武者の存在と集団という問題点は、記述の解釈の相違であるという結論に達した。 また解釈の相違に付きまとう、「騎馬隊」・「騎馬軍団」等の造語は、長篠の戦いの論考とは別物の問題であり、近代に作られた造語を、長篠の戦いの論考に混同すること自体が、間違いであると感じた。
その理由はなにか? を思考している。
理由の一つは、用いる史料の解釈の違い。 これは言うまでもなく、論者により、文章・記述の解釈に相違が発生していること。 今一つ、用いる史料・資料の相違・混合。 長篠の戦いを論ずるに、論者がそれぞれに根拠とする史料・資料を持ちだすこと。
今一つは、昨今気が付いたが、書籍・論文に利用された参考文献の著者を見ること。 また引用された参考文献の該当する箇所を全文通して読むこと。
何が言いたいか!、著者により、参考文献の書に偏りが見られるからである。 個別の事例は差別・誹謗中傷になりかねない為に、あえて記さないが、以後、参考文献に登場する著者名も併せて見ると、一定の傾向が見られるはずである。 いわゆる派閥・対立の構図が読みとれるという、珍事である。 何故なら歴史学、或いは謎の解明を突き詰めるのに、人間関係(或いは組織)が立ちはだかっているという面白さで、これが各論説の進展の妨げになっていることである。
もう一点、参考文献の該当箇所を、「切り抜き」ではなく、時間を懸けて、全文を読むことである。 「切り抜き」と全文では、記述の内容に相違が発生する。 「切り抜き」は、引用した著者の意図が介入するため、文意が改竄されることがある。
一方で、長篠の戦いを思考する上で、用いる基本史料(資料)においても、それぞれの立場的見解の相違がある。
長篠の戦いを記した、双方の記録、『信長公記』・『甲陽軍鑑』も戦いの見方に相違がある。 これは当然なことである。
*ここにも問題点があるが、そもそも長篠の戦いは、武田家対徳川家が主体であり、織田家はあくまで援軍であった。 しかし、徳川家康の立場、織田信長との関係上、同盟者というより家臣に近い存在であった。 よって徳川方の著名な記録が存在しない理由はそこにあるように思われる。 長篠の戦いを論考する際、徳川方史料は二次的史料あるいは補足となる場合が多いのも、上記の背景があると考える。
小生の疑問(思考の主体)は、記述の解釈の相違による歴史事象の並立にある。
次の記述が、疑問の一例である。
さて、鈴木氏は、武田軍は関東衆(西上野の小幡一党)だけが「馬上の巧者」であって、武田軍全般をいっているわけではないと述べている。 ところが、『信長記』に記録される長篠合戦の模様をよく読むと、武田軍は一番山県昌景、二番武田逍遥軒信綱、三番西上野小幡信真一党、四番武田信豊、五番馬場信春と攻撃を仕掛けてきたとある。 このうち、山県、武田信綱に続く小幡信真一党について、同書は「三番に西上野小幡一党、朱武者にて入替り懸り来る、関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る」と記録している。 注目すべきは、小幡らも「是又」馬で攻めてきたとある部分である。 このことは、山県、逍遥軒なども同様に騎馬で攻め寄せたことを明示するものといえる。 「行」とは、作戦や企図などを意味し、馬で突入する作戦で攻め寄せたことがはっきりとわかる。 この事実は、すでに桐野作人氏が指摘しているが、その通りであろう(桐野・2010年)
(『長篠合戦と武田勝頼』平山優 吉川弘文館 2014年 152頁)
参考文献
桐野作人 『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』 新人物往来社 2010年
鈴木眞哉② 『鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦』 洋泉社新書y 2003年
鈴木眞哉③ 『戦国軍事史への挑戦 疑問だらけの戦国合戦像』 洋泉社歴史新書y 2010年
鈴木眞哉④ 『戦国「常識・非常識」大論争! 旧説・奇説を信じる方々への最後通牒』 洋泉社歴史新書y 2011年
(上記同書 291-292頁)
上記の記述についての疑問の中心は、武田軍一番隊から三番隊までが、全て馬上武者を戦場に投入したか否かによる。 さらに論点を絞れば、馬上武者集団が連合軍陣地に向けて突入したか否かの記述の解釈になる。
参考文献に挙げられた、桐野作人氏の2010年の著書を手に取り読んでみた。
残念ながら、確かに、三番隊小幡一党の記述、「是れ又、馬入るべき行にて」(『新訂 信長公記』)を、一番隊から三番隊迄と解釈していることは、同氏の著書でもはっきりと記されていた。
しかし、問題は、その前後或いはその章全ての記述を読むのと、「切り抜き」の感想は全く違った。
それは、長篠の戦いの野戦に際して、武田軍がどの様な立場(状況の急変)にあったか? ここは結果を知ったうえで、「追い込まれたか」という状況も含めて、この一文を読まないと、本来の姿が変わってしまうように思えた。
兎角昨今は、時間を売り物にする世になった。 じっくりと記述を読まないという、欠点がここでも露になる。
また古語辞典で「是」という言葉を調べると、意味の一つに、「すぐ前に話題となったものをさす」があった。 すると、一番隊から三番隊迄が、馬上武者を戦闘に投入したと読めないことは否定された。 そして、その前の文章「関東衆馬上の巧者」を含めて考えるなら、馬上武者が戦闘に投入されたことは否定できない。 ただし、「是」の意味を考慮して、素直に記述を読むならば、「是」は「関東衆馬上の巧者」のことを指しており、「又」は、その技術をよって馬上武者を戦闘に投入したと読むことになる。 つまりこれは歴史学を超え、国語学に頼るべき問題点になるともいえる。
また、「馬」という言葉にも単語・組み合わせによって複数の意味が存在する。
一例として、次の記述がある。
馬を入れるという言葉には、騎馬と徒歩とにかかわらず突入するという意味がある。
(『長篠の戦い』 藤本正行 洋泉社 2010年)
一方で、「馬」には「出馬」・「馬納る」というように、馬上武者の意味の他に、大名の行動を表す意味もある。
問題点の主体は、馬上武者の存在(一番・二番隊も同様に)とそれが通説の集団(隊や軍団)であったかに定まる。
桐野氏の論考は、『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』第二章 馬 「検証・武田騎馬軍団」 141-166頁に詳しい。
*併せて第一章 火 戦国軍団の火器・戦術の実態 「織田信長の火器戦略」 77ー101頁 を全文読むと、よりいっそう長篠の戦いの世界を楽しめる。
桐野氏の論考は、前後を挟まれた武田軍の状況を考慮したうえで、先の『信長公記』の一文を解釈していると小生は読んだ。
武田軍は、当初の目的(連合軍とじっくり腰を据えた対峙)から、背後を取られる非常事態に状況が変化した。 つまり、正面の連合軍を短時間にて撃破・突破するか、退却かの二択を迫られ、戦前の敵情判断から、武田軍は、決戦を選択した(家中の意見は対立)。 こうした前後の状況を踏まえた上の馬上武者戦闘投入であるなら、その様な解釈の仕方も納得できる。
つまり、問題は、是が武田軍全体の作戦、または実態(あいまいな「騎馬隊」・「騎馬軍団」等の解釈)であるかという思考とは全く別問題であるという結論に達した。 つまり、通常の野戦・攻城戦ではない、背後を取られた、非常事態下の戦いであったという解釈が必要で、それは、武田方の長篠城包囲部隊が、連合軍別動隊の奇襲により、壊滅した報告を受ける(一報を勝頼は何時受けたか?)までとの作戦と陣構えとは状況が大きく変わったことを考慮する必要がある。
この思考を踏まえて、『信長公記』巻八 「三州長篠御合戦の事」を再読するなら、また違った感想を得ることが出来るだろう。
そして、それを踏まえた上で、『甲陽軍鑑』の長篠の戦いの記述、品第十四と品第五十二を読むと、双方の見解の違いがより明確になる。 それは、戦前戦後の武田勝頼の書状からも読みとる事が出来る。
と、桐野氏の論考に洗脳されたように見えるがそうでもない。
桐野氏は、徳川方の史料によって、武田軍の馬上武者が集団で連合軍陣地に突入してきたことを論じている。
「三番に西上野小幡一党、朱武者にて入替り懸り来る。 関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る」
このくだりから、武田軍のうち「馬上の巧者」は西上野衆だけではないかと解する向きもあるが、同書をよく読めば、「是又馬入るべき行にて」とあり、一番山県衆、二番逍遥軒衆に引き続いて同様に(「是又」)、三番の西上野衆が騎馬で攻め寄せてきたという大意である。 すなわち、武田軍の先手衆はすべて騎馬武者による突撃を敢行したと判断できる。
武田軍の騎馬攻撃の実態を詳しく記述した徳川方の史料もある。 家康の旗本衆で長篠合戦に参加した水野正重の書上「覚書 故水野左近物語」がそれである。
(『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』 154頁)
とある。
確かに、武田の馬上武者が 「五十騎、三十騎づゝかけ来り」(同書 156頁) というように集団で攻めかかってきた記述は存在する。 その後、桐野氏は、武田方の 「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)を用いて、騎馬集団の存在の裏付けを行っている。 しかし、この陣立書は武田信玄の旗本衆であり、武田家臣の部隊編成とは異なる。 旗本衆は武田家に直接雇われた者、直臣や傭兵であって、武田家臣の家臣いわゆる陪臣とは違うのである。 その理由は、兵種別編成の有無にあるが、ここではその論考は控える。
一方、この「覚書 故水野左近物語」なる史料がどれほどの史料なのか? 小生にはよく分からない。 小生の見識の浅さかもしれないが、恐らく同書で初めて知った史料・記述であるように記憶する。 ただし、ネットで調べると、検索で関連記事が直ぐ見つかる事実は存在する。
ここで言いたいことは、確かに著書を読んでいると、「思い込み」や話術により、論考に引き込まれてしまう傾向があることは間違いない。 しかし、先に示したように、これは記述の解釈の相違と、用いる基本史料の相違という、評価のしづらい問題点が存在する。
一方で、小生は知人を介して、中学校国語教師の方に『信長公記』巻八の武田軍の戦闘場面をどう読むのか?を質問していた。
*一つ質問ですが。 『信長公記』の「関東衆馬上の巧者」という記述。 この解釈。歴史学では埒が明かない。 国語学の専門家いませんか? それも歴史はあまり興味のない。 先入観が入るとまずい。 通説は武田軍が馬上武者で戦闘に突入した解釈になっている。
歴史学だとこうなってしまう。 だけど、どうもおかしい。 なんで甲州勢が「関東衆」なのか? やっぱり記述通り、西上野小幡一党の三番隊だけが、馬上武者を投入したと読むべきですが? 国語学の見地からこの記述をどう読むのか妥当かー、を教えてもらいたい。
返ってきた解答。
中学校国語教師から『信長公記』の返事が来ました。
「馬上の巧者だと、ほめていると思います。前後を読むと、信長は鉄炮千挺を用意している。一番の山縣は散々に射たれ、二番も過半数がうたれている。三番の小幡の赤武者たちが鉄炮の待ち構えているところへ、よりにもよって馬で攻めてきた。もちろん、鉄炮が火を噴き、馬もろとも過半数が射ち倒された。愚かよのう。勝てるとでも?
信長が最新式の鉄砲を持っているのにも関わらず、昔ながらの騎馬戦を仕かけて敗退した、と書いてあるように思います。私なら巧者でなく攻め者ですね。」
とのことです。
「馬上の巧者だと、ほめていると思います。」と「私なら巧者でなく攻め者ですね。」のくだりは、コピーを送った私の持っている『信長公記』が「馬上の巧者」でなく「馬上の攻め者」となっているためです。
とあり、国語の教師の方は、一例として上記のような解読している。 質問の仕方と相手の捉え方の問題も種々あるかもしれないが、やはり武田軍全体が馬上武者(集団)を戦闘に投入したとは読んでいない。
面白いのは、「よりにもよって馬で攻めてきた。」と読んでいるところで、解釈の仕方は色々あるということがよく分かった。
拡大解釈・先入観が作用していることかもしれないが、それは読者個人の見解の相違で、「世の中の人は色々あり」という武田信玄の名言の実態がここでも証明できた。
一方で、武田軍の馬上武者集団説に否定的な立場の鈴木氏の著書である。
『戦国「常識・非常識」大論争!』 鈴木眞哉 洋泉社 2011年 の第三章 「やはり「武田騎馬隊」はいませんよ!」89ー120頁に騎馬隊否定説の記述がある。 詳細は同書を読まれたい。
気になったのは、
当時の馬が小さかったので、その能力を過小評価しているからだといった例でありますが、まったくの邪推です。 こちらの書いたものを、きちんと読んでくださいということです。
(同書 111頁)
『戦国軍事史への挑戦』でも説明しましたが、当時の騎馬武者というのは、どこの家でも一定の地位、身分にある者が馬に乗って出てくるわけで、個人としての戦闘員でありました。 これに対して、近代の騎兵というのは、戦術的な単位の一員として働けるような兵士たちということになります。 その違いをわかりやすくいえば、騎馬武者を寄せ集めれば、西部劇やナポレオン映画に出てくるような騎兵部隊ができるというものではないということです。
(同書 112ー113頁)
一点目は、先にも触れた、記述の読み方・用い方。 「切り抜きか」・全文を読んだかの違いで、文意の解釈が変化する。 「切り抜き」引用は、昨今はやりの報道やネット上の「切り抜き」同様、衝撃的な見出しに利用され、意図的に文意が改竄されることと、そもそも記述を読まないという失態である。
そして二点目は、馬上武者が後の「騎兵」と混同して語られることであって、そもそも戦国時代の馬上武者の戦い方や軍馬の利用方法の見解・解釈の相違や誤解があることが読めた。
ここに挙げた、引用文は、小生の意図による引用で、他者の感じる感想とは違う。 よって全文を読まれたい。 また同書は、編集上参考文献の一覧を掲載していないが、記述内に多数の参考文献が登場する。 鈴木氏以外の論考を挙げると、
太向義明 「武田 ”騎馬隊” 像の形成史を遡る」(『武田氏研究』 21号 1999年9月)
藤本正行 『戦国合戦本当はこうだった』(洋泉社 1997)
同 『長篠の戦い』(歴史新書y 2010)
小和田哲男 掲載論文 『設楽原歴史資料館研究紀要・第四号』(2000)
同 『歴史ドラマと時代考証』(中経出版 2010)
桐野作人 『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』
となる。
これは初めに述べた、記述の解釈の相違であることは間違いない。 そして国語教師の一例を挙げたように、歴史学者・専門家・研究者とは異なる解読をしていることも示すことが出来た。
最後に、鈴木氏は、同書 「はじめに」 の中で次のように述べている。
歴史ことに戦国史の分野に関わっていると、いろいろな「壁」のあることに気付かされる。 まず、どうしても分からないような問題がある。 こんなことがまだ解明されていないのかといったことが、いくらもころがっているのである。
(『戦国「常識・非常識」大論争!』 3頁)
疑問の実態が明確化されたことにより、解釈の相違をどの様に修正していくのか? 歴史学だけの問題を超えた、共同研究や対面議論の必要性が見えてきた。
そこでこれらを踏まえて、個として出来うることは、『信長公記』の記述の深読みと、『甲陽軍鑑』の記述との比較と相違の検証であり、桐野氏の論考にあった、武田軍の置かれた状況変化をどう読むかに掛かっている。
武田軍が落城寸前の長篠城攻めを一時中断し、残留監視部隊を残して、何故陣を移したのか? この武田軍内の方針転換は? どういった理由・事情があったのだろうか? また連合軍の別動隊の動きも重要で、武田軍は別動隊の動向を全く察知できなかったのか? また武田軍本隊は、別動隊の奇襲攻撃の戦果をいつ知り得たのか? 長篠の戦いの謎はまだまだ沢山ある。
これらを『甲陽軍鑑』の記述から深読みすることは出来るのだろうか?
謎や思考の基は多数存在するが、これまでの定説の賛否の基、馬上武者の存在と集団という問題点は、記述の解釈の相違であるという結論に達した。 また解釈の相違に付きまとう、「騎馬隊」・「騎馬軍団」等の造語は、長篠の戦いの論考とは別物の問題であり、近代に作られた造語を、長篠の戦いの論考に混同すること自体が、間違いであると感じた。
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